「悟り」という言葉には、仏教のイメージなどが強く定着しているので、
はじめは誰もが僧侶的なものをすぐに想像してしまうのですが、
実際に世界的な規模で捉えても、禅宗・坐禅修行などは、
悟りを探求する者にとって、とてもポピュラーなものとなっています。
もちろん禅の世界観が大好きで、
それを生活に取り入れている方も多いのですが、
そういったことに関しては、特に大きな問題を感じたことはありません。
ただ自分も密教や曹洞宗には多少お世話になりましたが、
ある時期に深い「見性」の段階になっても、
「見性成仏」などにはなりませんでしたし、
「私は悟った、もうすべてを知った」なんて風にも、
全くならなかったのです。
それどころか道元さんが危惧していたような、
「哲学にハマって魔境に落ちる」といった、
そんな人達に気づくことのほうが多かったわけで、結局ある段階からは、
自分で仏教・宗教自体からは、離れていきました。
また以前にキリスト教の牧師さんとも関わったことがあるのですが、
その時にもやはり、宗教の世界観にのめり込んでいる人は多く、
いつの間にか宗教の教え(知識)と、
頭の中のイメージに恍惚としはじめるような方は、
少しも珍しくありませんでした。
なので今確実にいえることというのは、
さまざまな宗教の身なり・格好を含めて、
「悟りのイメージ・概念」などは、
ある段階で意識的に手放してしまったほうがいいということです。
なぜならそのほうがより自由に個性を活かすことができるし、
人物・キャラクターをありのままに楽しむことができます。
もちろんそうすることによって、
今までの「悟りのイメージ・概念」をもっている人達から、
逆に受け入れられないと思われたり、
長く誤解・誤認されることもあるでしょう。
けれど自分の場合は、『悟りの真意』に気づいたからこそ、
今度はあらゆるイメージ・概念を突破して、「悟り」に関する教えを
カジュアルなものにしたいとさえ考えているほどです。
(Youtube:ジョイ家)